三之丞、あの頃。

三之丞、と聞くと、今でも小国川のせせらぎの音が聞こえる気がする。

廊下の窓から、すぐ下を流れる川を眺めていた。4歳か5歳の頃のことだ。祖父母の湯治に連れられて、春休みのたびにここへやって来た。10日間、ここが自分の世界だった。両親と離れるのに、寂しさはなかった。それどころか、自由を手に入れ、水を得た魚のように生き生きとしていた。

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子どもたちの王国

三之丞の湯治部は、館内でも大浴場に一番近い場所にあった。部屋と共用廊下の間には障子があるだけで、鍵のついた扉はなかった。それが当時は普通だった。

大浴場の扉を開けるたびに、あの岩風呂が目に飛び込んできた。

約5メートル×3メートル。大人たちが静かに浸かるその湯船は、幼稚園児の私には完全にプールだった。

浴場の一面にそびえる大岩には、植物や苔がびっしりと生えていた。子どもの目には、ジャングルだった。そしてその岩の下の方をよく見ると、無数の名前や日付が刻まれている。ここを訪れた人たちが、記念に名を残しているのだ。これを見つけたとき、祖父と従兄弟と顔を見合わせた。ヘアピンを取り出して、自分の名前を彫り始めた。岩は想像以上に硬かった。1つの線が浮かび上がるまでに、何度も何度もヘアピンを往復させる必要があった。滞在中、時間を見つけては少しずつ、少しずつ。

お風呂に入っていると、旅館のスタッフが金属製のカゴに卵を詰めてやって来ることがあった。そのカゴを源泉溜まりに沈める。しばらくすると、温泉卵ができあがる。1日に何度もその光景を見るうちに、いつの間にか当たり前の風景になっていったが、最初に見たときの驚きは今でも覚えている。

館内はダンジョンだった。方々に延びる廊下、思いがけない場所に現れる階段。大人には不便な迷路が、子どもには冒険の世界だった。私と同じように親族に連れられてきた子どもたちが何人もいて、お風呂で仲良くなった。気づけば館内中を一緒に駆け回っていた。どこまでも続くような廊下を、息が切れるまで走った。

ロビーの売店には、お気に入りのお菓子やアイスが並んでいた。母からもらったお小遣いは、あっという間になくなっていた。

そんな毎日の傍らで、祖母は廊下の突き当たりにある自炊場で、家にいるのと変わらず家事をこなしていた。湯治とはそういうものだった。非日常の中に、日常がある。春休みの10日間は、そうやって夢のように過ぎていった。

知らないおじちゃん、おばちゃん

毎日毎日、お風呂で遊び、廊下中を駆け回った。今思えば、宿の方にも、湯治に訪れた方々にも、かなり迷惑な存在だったと思う。多いときには十数人の子どもたちが、まるで公園で遊んでいるかのように、はしゃいでいるのだから。

でも、怒られたことは一度もなかった。

それどころか、たまたま同じ期間に居合わせた湯治客から「お菓子食べていきなさい」と声をかけられることが多かった。知らないおじちゃん、おばちゃんと、次々と仲良くなった。昔の話を聞いたり、折り紙の折り方を教えてもらったり。他の温泉の話を聞くこともあった。

今では考えられないことかもしれない。見知らぬ大人が、見知らぬ子どもに声をかける。でも当時は、それが自然だった。湯治場という場所が、そういう空気をつくっていたのだと思う。

思い返すと、その大人たちは、幼稚園児の私に、人として向き合ってくれていた。子ども扱いせず、話を聞いてくれた。そのことが、今になってよくわかる。

湯治を終えて、それぞれが帰っていく。この別れには、なぜか猛烈な寂しさを感じていた。

自分たちがここを発つ日も⋯。

何人かは連絡先を交換して、その後も手紙のやり取りをしたが、幼稚園児の文通はそう長くは続かなかった。

時間の流れ

それから数年、祖父母と共に何度もこの宿にやって来た。

時は流れ、私は社会人になった。やがて祖父が他界した。祖母も、遠路三之丞まで足を運ぶことができなくなった。あれほど毎年来ていた場所が、急に遠くなった。

大人になってからも、数年に一度は自分の足でここを訪れた。足が悪くなった祖母を連れて来たこともある。そのたびに、あの岩を確かめた。ヘアピンで彫った自分の名前が、うっすらとまだそこにあった。

でも、時間は岩にも刻まれていく。彫った跡は少しずつ丸くなり、平たくなり、やがて消えた。写真を撮っておけば良かった、と今でも思う。

名前が消えても、三之丞は変わらずそこにあった。

祖母の湯灌

そして、私に湯治というものを教えてくれた祖母が、99年の人生を閉じた。

私は無意識に三之丞に車を走らせた。祖母の湯灌に、ここのお湯を使いたい。事情を話すと、三之丞のご主人は快くお湯を分けてくれた。

あの頃と変わらない三之丞の湯で、祖母の身体をやさしく撫でた。

祖母が好んだ湯であり、私にとっても唯一無二の追憶の湯が、最期まで祖母と私を結んでいた。

おわりに

ネットのない時代に、昔の人々はどうやって湯治先を選んでいたのだろう。恐らくは口コミだ。今よりもずっと足で稼いだ、生きた言葉による口コミが、人から人へと伝わっていったのだろう。車が一般に普及したのは昭和40年代のことだ。それ以前は、布団や鍋釜を牛車に乗せたり担いだりして湯治に出かけた人もいたと聞く。行き帰りだけでも、相当な覚悟が要ったはずだ。そうまでして、行く価値があった。

湯治とは、そういうものだ。古い慣わしではない。身体が求め、人が動く。その積み重ねが、文化になった。

祖母が私をここへ連れてきたのも、きっとそういうことだったのだと思う。言葉では教えられないものを、湯が教えてくれる。傷を癒やし、心を洗う。湯の温度は、人の温度だ。

※本文中に登場する「岩に名前を刻む」行為は、数十年前の極めて特殊な環境と時代背景におけるエピソードです。現在、同様の行為が認められているかどうかは確認できていません。宿の貴重な財産である岩を傷つける行為はお控えいただき、訪問の際はマナーを守ってお楽しみください。

こまこ|温泉湯治コンサルタント

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